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徳川家ゆかりの「上野の森」上野恩賜公園
西郷さんの銅像、上野動物園のパンダ、桜の名所としても親しまれている上野恩賜公園(通称:上野公園)ですが、元は徳川家の菩提寺「東叡山 寛永寺」の敷地だった場所です。
公園内には、江戸時代初期に建造された「上野東照宮」や、元禄時代に移築された「清水観音堂」が、過去の災禍を免れて現存する歴史スポットでもあるのです。
上野東照宮
「東照宮」とはご存知、徳川家康公を祀った神社。各地にありますが、久能山(静岡)、日光に次いで建てられたのが上野東照宮です。
家康が、津藩主の藤堂高虎と、天台宗の僧侶・天海に、魂を安堵できる場所を建ててほしいと遺言したことから建てられました。
当時、高虎の敷地だったこの地に初代社殿が建てられましたが、慶安4(1651)年に3代将軍家光が改築。以後、数々の震災や戦禍を免れて現存する貴重な建造物です。
清水観音堂は、寛永寺の天海が、上野の森の木材を使い自費で建設。当時は旅することも難しかった庶民のために、京都の清水寺に模して造られました。
規模こそ小さいですが、京都の清水の舞台みたいですよね? 作りは同じなんです。
寛永8(1631)年、境内の別の場所に建てられましたが、元禄時代に今の場所に移築。「月の松」と一緒に錦絵にも多く描かれています。江戸時代からの「観光名所」とも言えますね。
清水観音堂の「月の松」と錦絵(歌川広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」)
彰義隊の墓
第二次大戦後の闇市に始まり、次第に統率されていき、今のような商店街へと発展していきましたが、各店専門色が強く、ディープな市場的な名残も残しています。
寛永寺・根本中堂
徳川家が、幕府安泰の祈願のため、天台宗の僧侶・天海に上野の森を与えて建立された「東叡山 寛永寺」。「東叡山」とは同じ天台宗の比叡山に倣い、東の比叡山という意味です。
厳有院殿(徳川家綱)霊廟勅額門
元々、本堂(根本中堂)は、今の上野公園の噴水広場にありましたが、上野戦争によって焼失。敷地は接収され、子院があった今の場所(谷中霊園近く)に、川越喜多院の本地堂を移築して作られました。
増上寺に次いで、徳川家の菩提寺となった寛永寺には、元々、4代家綱(厳有院)と5代綱吉(常憲院)の霊廟がありましたが、空襲で大部分が焼失。
霊廟の敷地内(非公開)には6名の将軍(4代家綱公・、5代綱吉公、6名の将軍8代吉宗公、10代家治公、11代家斉公、13代家定公)の墓所があり、家定の隣には正室だった篤姫こと天璋院の墓所もあります。
かつて朝敵とみなされた徳川慶喜も、宮廷と同じ神道式での葬儀を望み、菩提寺の徳川家霊廟ではなく谷中墓地に、皇族と同じく神道式の円墳に葬られています。
また若い頃から慶喜に仕えてきた実業家の渋沢栄一の墓所も、この谷中霊園にあります。渋沢栄一は維新後も慶喜に仕え、慶喜の名誉回復のため「徳川慶喜公傳」を出版しています。深い繫がりを感じさせます。
日暮里駅から、夕焼けの綺麗な階段「夕焼けだんだん」、谷中銀座商店街と続きます。
名物の「谷中せんべい」は、やっぱり美味しい! 今でもお店で一枚一枚焼かれています。谷中銀座を抜けた先の越塚のコンビーフも美味しいですよ!
公園内には、江戸時代初期に建造された「上野東照宮」や、元禄時代に移築された「清水観音堂」が、過去の災禍を免れて現存する歴史スポットでもあるのです。
江戸初期建造の「上野東照宮」
上野東照宮
家康が、津藩主の藤堂高虎と、天台宗の僧侶・天海に、魂を安堵できる場所を建ててほしいと遺言したことから建てられました。
当時、高虎の敷地だったこの地に初代社殿が建てられましたが、慶安4(1651)年に3代将軍家光が改築。以後、数々の震災や戦禍を免れて現存する貴重な建造物です。
江戸時代からの観光名所「清水観音堂」
今でも桜の名所としても知られる上野公園ですが、江戸時代から親しまれていたようです。清水観音堂は、寛永寺の天海が、上野の森の木材を使い自費で建設。当時は旅することも難しかった庶民のために、京都の清水寺に模して造られました。
規模こそ小さいですが、京都の清水の舞台みたいですよね? 作りは同じなんです。
寛永8(1631)年、境内の別の場所に建てられましたが、元禄時代に今の場所に移築。「月の松」と一緒に錦絵にも多く描かれています。江戸時代からの「観光名所」とも言えますね。
清水観音堂の「月の松」と錦絵(歌川広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」)
彰義隊の墓
彰義隊の墓
大政奉還後、鳥羽・伏見の戦いにおいて、実質、朝敵となってしまった徳川慶喜は、大阪城から江戸に退去。寛永寺に謹慎していましたが、旧幕臣たちが集まり、彰義隊を結成。
江戸開城後、慶喜は水戸に移りますが、上野に残った彰義隊が、慶応4(1868)年、新政府軍と衝突(上野戦争)。戦力に勝る新政府軍によって、わずか1日で壊滅させられます。
戦後しばらくは、表だって彰義隊の戦死者を弔うこと憚られていました。上野の彰義隊の墓は、1875年(明治8年)になって建てられ、1881(明治14)年に旧幕臣山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」という今の墓碑が建てられました。
江戸開城後、慶喜は水戸に移りますが、上野に残った彰義隊が、慶応4(1868)年、新政府軍と衝突(上野戦争)。戦力に勝る新政府軍によって、わずか1日で壊滅させられます。
戦後復興の象徴「アメヤ横丁(アメ横)」
今のJR上野駅から御徒町駅のガード沿いに続く「アメヤ横丁」(通称:アメ横)。第二次大戦後の闇市に始まり、次第に統率されていき、今のような商店街へと発展していきましたが、各店専門色が強く、ディープな市場的な名残も残しています。
上野桜木~谷中
上野公園や国立博物館の北側、JR鶯谷方面が「上野桜木」。現在の寛永寺の本堂(根本中堂)があります。そこから、さらに北側の日暮里方面に進むと、谷中霊園、谷中銀座と続きます。東叡山 寛永寺
寛永寺・根本中堂
厳有院殿(徳川家綱)霊廟勅額門
元々、本堂(根本中堂)は、今の上野公園の噴水広場にありましたが、上野戦争によって焼失。敷地は接収され、子院があった今の場所(谷中霊園近く)に、川越喜多院の本地堂を移築して作られました。
増上寺に次いで、徳川家の菩提寺となった寛永寺には、元々、4代家綱(厳有院)と5代綱吉(常憲院)の霊廟がありましたが、空襲で大部分が焼失。
霊廟の敷地内(非公開)には6名の将軍(4代家綱公・、5代綱吉公、6名の将軍8代吉宗公、10代家治公、11代家斉公、13代家定公)の墓所があり、家定の隣には正室だった篤姫こと天璋院の墓所もあります。
徳川慶喜、渋沢栄一も眠る谷中霊園
明治7年に開設された公共の墓地、谷中霊園(当時は「谷中墓地」)。富くじで知られた感応寺(現:天王寺)の参道でもあった場所で、以前は幸田露伴の作品のモデルとなった五重塔(放火により焼失)もありました。かつて朝敵とみなされた徳川慶喜も、宮廷と同じ神道式での葬儀を望み、菩提寺の徳川家霊廟ではなく谷中墓地に、皇族と同じく神道式の円墳に葬られています。
また若い頃から慶喜に仕えてきた実業家の渋沢栄一の墓所も、この谷中霊園にあります。渋沢栄一は維新後も慶喜に仕え、慶喜の名誉回復のため「徳川慶喜公傳」を出版しています。深い繫がりを感じさせます。
昭和の下町!谷中商店街
JR日暮里駅近くまで来ると、まさに昭和の下町!日暮里駅から、夕焼けの綺麗な階段「夕焼けだんだん」、谷中銀座商店街と続きます。
名物の「谷中せんべい」は、やっぱり美味しい! 今でもお店で一枚一枚焼かれています。谷中銀座を抜けた先の越塚のコンビーフも美味しいですよ!