旅行前に知っておきたい!百済の歴史
高句麗、新羅とともに韓国の三国時代を築いた百済(くだら・ペクジェ)。日本(倭国)との関わりも深く、唐も含めて、東アジア一円の社会、文化に深く関与しています。
その歴史を紐解くことで、旅行の楽しみも倍増!まずは、百済の歴史を旅してみましょう。
百済(くだら)は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。
一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高(句)麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。
韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。
※朝鮮半島の古代史は諸説があります。
■建国神話 (前18年~)
韓国の三国史記によると、百済の建国は、紀元前18年となり、高句麗の祖である朱蒙(チュモン)の三男、温祚によって建国されたとされています。温祚は、慰礼城 (現在の広州市 南漢山城か?)に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。
■前期 漢城時期( – 475年)
夢村土城の土塁跡(ソウル)
近肖古王の時、拡大を続ける高句麗に対抗、百済は平壌まで攻め入り、故国原王を討ち取るものの、のちの高句麗の広開土王に反撃され、そのため、新羅、日本(倭国)と同盟を結ぶようにもなりました。
しかし、475年、高句麗・長寿王に攻め入られ、ついに首都・漢城は落城、時の第21代蓋鹵王は捕らえられ、討死しました。
■中期 熊津(公州)時代(475年 – 538年)
熊津の公山城跡(公州)
第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ 、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。
第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。
武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南の 泗沘(サビ)、今の扶余へ遷都しました。
■後期 泗沘(扶余)時代(538年 – 660年)
泗沘に遷都した聖王(「聖明王」)は、国号も「南扶余」と変えましたが 、その名は定着しなかったようです。滅亡の傷跡を残す定林寺・五重塔
その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。
はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済 義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。
こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本(倭国)ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。
■百済滅亡と白村江の戦(660-663年)
扶蘇山城より白馬江を望む
百済軍は、黄山之原(現在の忠清南道 論山)において決戦に挑み、善戦するも新羅軍に大敗してしまいます。
一方、唐軍を白江(現在の白馬江。錦江の中流 扶余付近)に引き込む作戦に出ますが、唐軍に 泗沘城(扶余・扶蘇山城)を包囲されてしまいます。一時義慈王は旧都の熊津城(錦江の中流域)に脱れますが降伏し、ついに百済は滅亡したのでした。
白村江?錦江河口付近(群山)
日本(倭国)からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」(今の錦江?)の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。
百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。
■参考文献 ウィキペディア(Wikipedia)百済
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