百済 最後の都となった「泗沘」~扶余~

538年、第26代 聖王(聖明王)がこの地に遷都。仏教文化も花を咲かせ、日本に仏教が伝来したのも、この頃です。しかし、のちの660年、唐・新羅連合軍によって百済は滅亡へと進んでしまいます。都城サビ防衛の中核だった扶蘇山城の目下には、白馬江が、時の流れを忘れさせるかのように、ゆっくりと流れています。
1993年に金剛大香炉が発掘され、技術力の高さも証明することになりました。
百済最後の都 扶蘇山城

しかし、唐と新羅の連合軍によって、660年、百済は滅ぼされてしまいます。 百済の遺臣は、日本に援軍を要請。それが古代日本史に登場する「白村江(はくすきのえ)の戦い」です。
●国破れて山河あり… 百花亭と落花岩



下には白馬江が流れ、絶壁の上からの眺めは、かつての百済、韓国の原風景をしのばせ、どこか懐かしさすら感じる風情あるところ。その岩の頂に建てられているのが百花亭です。
百済滅亡の際、この岩から官女たちが身を投げたと言われ、その姿が悲しくも、美しかったことから、落花(落下)岩と名づけられました。
●風情ある川下りも楽しめる 白馬江

百済滅亡後、日本からの援軍が戦った「白村江の戦い」は、この川(当時「白江」)の河口付近(群山)で行われた戦いです。
百済王朝が復活!百済文化団地「歴史再現村」

滅亡した百済は、当時の建造物がほとんど残っていません。推測も含めた全てレプリカですが、広大な敷地に百済の都や住居が再現されており、当時の姿をイメージすることができます。
また入口には展示館もあり、百済の歴史を観ることもできます(展示品は全てレプリカ)。
百済の文明技術を物語る金剛大香炉 扶余博物館

龍の台座に、満開の蓮の花、蓋の部分は山並みに釣人、象に乗る人、最上部は躍動的な鳳凰が象られ、当時の東アジア最大の傑作のひとつとも言われています。
高さ62cm、重さ11.8kgにもなるこの大香炉は、井戸の中から発見されました。百済滅亡の折、他に隠す場もなく、とっさに井戸の中に投げ込まれたものと見られています。
以後、660年から、発掘される1993年まで、百済とともに、井戸の中に眠っていたのです。
百済仏教文化の遺産 定林寺跡

1400余年の時を超えた石塔は、百済の石塔様式を見せてくれる貴重な遺跡。焼け跡とともに「大唐平百済国碑銘」の文字があり、唐の連合軍が、百済を陥落させた記念に刻んだものと言われています。
同じ様式を取る石塔が、日本の東近江市の石塔寺にもあり、滅亡後の百済から逃れた百済人から伝わっていると推論されています。
扶余の名物 蓮の葉ご飯定食

公州、扶余のある忠清南道は、インパクトのある目立った名物料理が少ない地域。ですが決して派手ではない、味わいのある山菜や煮物類などを楽しみながら、古の百済を思い起こすのも、また乙なものです。
宿泊には、ロッテ扶余リゾートがおすすめ

サービスやランクは他のロッテホテルよりは落ちますが、他に大きなホテルもない公州、扶余の観光には、お勧めです。
将来的は大型ショッピングモール、遊園地も備えた、一大テーマパークを目指しています。
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