百済文化の華咲く都・熊津 ~公州~
公州は、百済第2の都。475年、高句麗から漢城(今のソウルの南)を奪われた百済は、当時「熊津」と呼ばれた公州に都を建設。63年間、都が置かれました。一時期の混乱はあったものの武寧王の時代には、王権も回復。
近年、その武寧王と妃の墓が盗掘されずに見つかったことで、これまで謎も多かった百済文化が明らかにもなりました。
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宋山里古墳群 武寧王陵
1973年、百済第25代 武寧王と王妃の埋葬された王陵が盗掘されないままで発見され、金冠をはじめとした多くの副葬品が出土されました。実際の王陵内に立ち入ることは出来ませんが、併設されている模型館には陵内を精巧に再現した部屋や、当時の様子を表した模型などが展示され、実際の様子をうかがいしることができます。
※写真は、模型間の武寧王陵内を再現した部屋です。
実際の王稜、隣に王妃の墓
武寧王の棺の模型
王陵の作成方法
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武寧王陵の発掘品が見れる 公州博物館
武寧王陵から発掘された文化財が展示されている公州博物館。国宝にもなっている金製冠飾(写真)や耳飾など、王や王妃の装飾品と副葬物が展示されています。慶州で発掘された装飾品と見比べて見ると、新羅、百済の対比ができて、さらに面白いかもしれません。
また、第二展示室では、百済文化がよくわかるように、原三国時代から、熊津(公州)、サビ(扶余)に遷都する前後までの生活文化、仏像、対外交流関連資料などが展示されています。
錦江を望む山城 公山城
公州は百済時代には「熊津」と呼ばれ、文周王元年475年から、63年間都が置かれた場所。その遷都の際、高台の上に築かれていたのが公山城。現在残っている石垣は朝鮮王朝時代のものですが、当時は土塁であったとか…。
城郭をぐるっと周ってを歩くだけでも、たっぷり1時間半。
通常観光では入口の錦西楼近辺を散策します。
■下に錦江を望む天然の山城
錦西楼から北側に登っていくと、眼下に錦江が流れているのが見えてきます。敵が攻めにくい地形を生かした、まさに天然の要塞となっています。下の方に錦江からの入り口「拱北楼」(北門)が見えます。 注)公山城敷地は広く、かなり歩くため、通常の観光では入口近辺のみの見学にしています。
以下までは詳しく見学しません。ご希望の場合は事前にお知らせください。
■ぐるっと周ると1時間半
史蹟ポイントを見ながら、ぐるっと周って歩くだけでも、約1時間半。城郭の周りはかなりの高低差もあり、近隣の方々のウォーキングコースにもなっているようです。
遺跡ばかりでなく、周囲の景色も眺めながら、ゆっくり散策したい場所です。
百済時代の推定王宮跡
朝鮮時代の鎭南樓(南門)
高低差がかなりあります
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■百済時代の宴会場 臨流閣
公山城の一番東側奥にある臨流閣は、東城王の時代(500年)に臣下の宴会場として建てられたもの。現在の建物は、発掘調査を基に、1993年に復元されたものですが、周囲の木々の緑とも相まって、
屋根裏の装飾も見事。美しい佇まいになっています。
公州名物 牛頭を煮込んだタロ・クッパ(ソモリクッパ)
公州のご当地名物のひとつは、ソモリ・クッパ。「ソモリ」とは「牛の頭」のことで、牛頭を煮込んだスープのクッパ。具には別途牛肉や野菜が入っています。通常「クッパ」といえば、ご飯も一緒にスープの中に入っているのですが、別々に出てくるのが特徴。そのため地元では「タロ(分かれた)・クッパ」と呼ぶことの方が一般的みたいです。
…というか、それでもクッパなの?って感じですが、味はカルビタンよりもスープの旨みが濃厚で、美味しいです。
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