百済の歴史 |
■中期 熊津時代(475年 - 538年) |
東城王の宴会場「公山城・臨流閣」公州 |
長寿王の攻撃から逃れた蓋鹵王の子、文周王は都を熊津(今の忠清南道 公州)に遷すものの、大臣に刺客を送られ、暗殺。しばらく混乱期が続きます。 第24代東城王は、新羅、倭との関係を密にし、南へ領土を広げ、百済王権と国力の回復に成果を挙げるものの、晩年は飢饉の際にも贅沢浪費をし、臣下によって暗殺されます。 第25代 武寧王の時代になって、ようやく百済王権の回復を見せます。しかし、次第に新羅が勢力を伸ばし、高句麗の南部(百済の北側)へと領土を拡大させていきます。 武寧王の亡き後即位した、第26代 聖王(日本書紀での「聖明王」)は、高句麗からの攻撃を受けたこともあり、538年、都を熊津から、南のサビ(泗● :さんずいに「比」・しび)、今の扶余へ遷都しました。 |
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